創刊1924年(大正13年)、通巻1000号を超えた鶏の専門誌!
地域に根ざした固有ブランド作り必要
東富士農産株式会社 石田史氏
石田史氏
 「P.Bio.Fuji」グループは静岡県御殿場市の東富士演習場の跡地で民生安定事業として出発し、鶏卵部門と並んで鶏肉を扱う食肉部門、商品名「コフナ」で知られる微生物資材の販売などを手掛ける。今回はその一角を担う東富士農産株式会社で代表取締役を務めている石田史社長に話を伺った。
 石田社長は実父である石田九市氏の後を継ぐため入社、九市氏が病で倒れたことを機に本格的に経営に携わるようになった。ゆったりと温厚な語り口で石田社長はこれまでの経緯を話してくれた。
――入社される前は大学に
石田―ええ。農業者大学校を卒業しています。農業者大学校はいわゆる地方の農業者の跡継ぎを養成するような学校で、私の周囲には自分と似たような境遇の仲間がたくさんいました。その後、豊橋の新城試験場でウインドレス鶏舎の勉強を半年ほどしました。ウインドレスは当時新しいタイプの鶏舎で、分からないことも多かったので、勉強する必要があったからです。豊橋では大学校に入る前にもお世話になっています。
――では後を継ぐことを前提に大学も選ばれて
石田―ほかの道を考えることはあまりありませんでしたね。とくに強い思いでやりたいと思うこともなかったですし。本音を言えばこの地域はもともと農家が多い土地柄で、自然な成り行きといえばそれまでのようなところがあります。
 正直入るまではどんな業界かもわからなかった状態でしたが、小さい頃には庭先養鶏をやっているのは近所では当たり前の光景で、自分の家でも鶏を飼っていました。その頃そこで取れた売り物にならない卵を食べたりしてましたからそういう意味ではこの仕事についてまったく無縁だということもないんです。
 ただ、仕事としての養鶏を知るようになったのはこの会社に入ることになってからのことです。
――入社された頃のことをお聞かせ下さい。
石田―入社した当初というのは、会社の状況もあまりいいとはいえない状況だったんです。鶏舎はお世辞にも新しいとはいえるものではなかったですし。従業員にしても、私より年下の人などいませんでした。実際、入社してから一〇年位は一番私が若い状態が続いたのではないでしょうか。
(続きは1月号に掲載)
地元と共に生きる、新しい形の企業経営を
有限会社元木養鶏

元木隆行氏
 有限会社元木養鶏は、本社を神奈川県川崎市に構え、生産農場を、千葉の市原、神奈川の相模原、茨城の下館に構える都市近郊型農場で、各農場は元木家を中心としたいわゆる親族経営である。今回取材した同社の元木隆行農場長は同社の主力農場である市原農場に勤務し、従兄に当たる元木政男工場長と二人三脚で同農場を切り盛りしている。
 元木農場長は会話中、終始穏やかで控えめな口調で、等身大の自分を語ってくれた。会話の随所に地元の人とのつながりや親、親族、そういった人と人とのつながりを意識した言葉が聞かれる思いやりにあふれた優しい人柄だ。
――獣医の免許もお持ちだと聞きました。
元木 家のために獣医をやるという意識はなかったですけど、動物自体は好きだったので小学校の卒業文集にも、すでに将来は獣医になりたいって書いていたんです。ただ考えてみると、小さいときから鶏をはじめ、動物に触れる機会が多かったのでそんな思いにもつながったのだと思います。
父が獣医志望だったところは影響がなかったといえば嘘にあるかもしれませんね。昔は親の言ったところにいかなくてはいけないという風潮があったらしくて、父は日大の獣医学部に受かったらしいのですが、泣く泣く農業大学に入学したという話も聞いていて、そんな思いもあったのか、小さい頃から耳元でささやかれていたような気もします。気づいた時には獣医になろうと思っていましたね。
(続きは12月号に掲載)
よりどころは常に「よい雛」を作ること
福田種鶏場株式会社 山上祐一郎氏
山上祐一郎氏
 岡山県岡山市にある株式会社福田種鶏場は、1931年に種鶏1000羽と2000卵入り孵卵器二台で創業して以来、76年に渡って種鶏孵卵業に特化して成長を続け、現在は、年間1600万羽のブロイラー用初生雛を販売、日本有数の種鶏孵化場となった。山上恭宏社長の父にあたる故山上茂吉氏が創業した同社は1967年には、大手商社と共同で㈱日本チャンキーを設立。現在全国に広く流通しているブロイラー専用種「チャンキー」のルーツカンパニーでもある。
 今回取材した山上祐一郎専務は山上恭宏社長の長男にあたり、現在36歳。次の世代の担い手として期待されている。
 だが、過去には家業と距離を置いた時期もあり、異業種の中でもさらに際立って異なるテレビ局に7年間勤務していた。
 ハンドボールで鍛えた体とスポーツマンらしい爽やかさ、親しみ易さが印象的な山上専務に事業継承を決意するにいたった経緯と種鶏孵卵業にかける思いを伺った。
――若い頃は家業についてはあまり興味がなかったようですが。
山上――興味がないというか、意識的に距離を置こうとしていた時期があったかもしれませんね。小さい頃から鶏舎と孵化場のそばで育ち、ヒヨコにも慣れ親しんでいました。周囲から「三代目」と呼ばれることも時々あったと思います。
(続きは11月号に掲載)
液卵メーカーの需給調整機能を維持するためにも、
供給責任を意識して欲しい


イフジ産業株式会社 藤井宗徳氏
イフジ産業 藤井宗徳氏

 液卵事業者としてのイフジ産業㈱の創立は、1972年。今回取材した藤井宗徳取締役の父である、藤井徳夫社長が小さな養鶏場として出発させ、液卵の大口取引先を長期の営業努力によって得たことから、採卵養鶏から液卵をメインとした事業に転換した。その後、時代背景にマッチした同事業は順調に規模を拡大、2001年にはJASDAQに株式を上場するに至っている。
 藤井取締役は、取材中も理路整然と話を進める姿が印象的な人物で、現在進行中の「たまごニコニコ大作戦」でも自転車で旅を続ける「じょ兄。」さんの伴走を勤めるなど情熱家としての一面も持っている。
 液卵事業者という立場からみた養鶏業界は、新世代の藤井取締役にはどうみえているのだろうか。そもそもは、同社に入るつもりもなかったという同氏に話を伺ってみた。
――大学卒業後、同社に入ることは考えなかったのですか。
藤井 ええ。運輸交通関係の会社に就職を決めていたんです。
――将来の進路のことについては、何か言われるようなことは。
藤井 父には、今振り返ってみても自由奔放に育ててもらったと思っています。ですから、とくにこれといって将来のことを言われたということはないんです。というより、話していたとしても、私の方が受け流していたような部分もあるのですが。ただ一方で「男とはかくあるべき」といった精神論的なことは日々、要所で言われていました。
――ではどういったきっかけで。
(続きは10月号に掲載)
人材の育成こそが使命
           株式会社ヒノマル 田村隆博氏
田村隆博氏

今回取材した㈱ヒノマルの田村隆博社長は、これまでとは世代の層が一回りほど違う位置にいる。新世代というには、経験豊富で、このシリーズとしては少し年齢が高いのかもしれない。
だが、話を聞いているうちにこのちょうど、世代と狭間にいる、まさに1.5世代の、この業界における大切な位置づけを垣間見ることができた。
――入社されたのは、いつのことですか。
田村 昭和54年の6月4日です。実はこれは私の父が亡くなった日でもあります。ある日突然父が倒れたとの連絡をもらって病院に行ってみると、久しぶりに会った父親はすでに病院のベッドの上にいました。感情が揺さぶられるというよりは一人の人間が次第に弱っていくところを客観的に観察するような感じでしたね。自分もいつか寿命で亡くなるんだなというのが素朴な印象でした。当時、父がベッドの上で必死に暴れていたのが目に焼きついています。これからまだやりたいことがあって、悔しかったからだと思うのですが、そんなに悔しいのだったら、なんとか父がやり残した仕事をして骨を拾ってあげなくてはいけない、そういう気持ちはあったと思います。
――18歳というとまだ高校生くらいの年齢ですが。
田村 そうですね。ただ、家族を18にして背負ったようなところがあって、食べさせていかなくてはいけないという気持ちが、継ぐとかそんなこと以上に強かったように思います。入社してから、30過ぎまでは、土曜まで本社のある京都で仕事をして、日曜に但馬に帰り、日曜の夜には京都に戻ってくるような、がむしゃらな生活を続けていました。
(続きは9月号に掲載)

他産業からみても魅力ある業界に
                有限会社ダイノーエッグ 古屋聡氏古屋聡氏
今回取材した広島県広島市に事業本部を置く(有)ダイノーエッグの古屋聡専務は、小さい頃の家業への思い入れの強さから、自らの進む道を変更して養鶏業界に飛び込んできた。
――家業については小さな頃から知っていましたか。
古屋 はい。小さい頃から、父の仕事場に出入りしていた記憶があります。ケージの組み立てや、鶏糞処理、鶏の出し入れ、ワクチネーションなど、夏休みや冬休みを利用していろいろと作業を経験していました。こうしたことに家の仕事を手伝うのは当たり前のことだと思っていたので嫌だと感じたことはありません。ただ、大変な仕事をしているなと感じていましたね。
――継ぐということを意識はしていましたか。
古屋 三人兄弟で、誰かが継げばよいかなと思っていたので継ぐというイメージはまったくなかったです。中学、高校と好きなサッカー中心の生活をして、大学は、順天堂大学の体育学部です。大学ではサッカー部に入りましたが、途中で多くの才能のある人に出会い挫折も経験しましたね。それでも在学中は何か別の道でスポーツをと思い、競技スキーなどにも挑戦しました。それから、重度の障害を持った子供を外に連れ出して、運動をさせるようなボランティア団体に所属したりしていました。最初は興味半分でしたが、短い人生を生きる子供たちの考えていることは非常に密度の濃いことだと感じるようになって、結局在学中四年間ずっとそこに所属していましたね。
――そして卒業後は、スポーツジムに就職。
古屋 ええ、自分はスポーツ業界で生きていくと決めていましたからね。東京にあるスポーツクラブに就職しました。一番熱を入れてやっていたのは、生活習慣病を患った方を対象に、運動プログラムを組んで健康になるためのサポートをする仕事です。今でも、スポーツが大好きです。最近はサーフィンですね。
――そうすると、家業を継ごうと思ったきっかけはなんだったのでしょうか。(続きは8月号に掲載)
共存共栄の精神が生かされるべき時代だ
      
            ㈱森孵卵場 森泰三氏

森泰三氏
 日本のブロイラー産業の勃興は、戦後アメリカからブロイラーが輸入され飼養する鶏種が卵肉兼用種からブロイラーに変わり、鶏肉に特化した業者が出始める昭和30年後半から40年の間にあるというのが大方の見方だが、そうした中、森孵卵場は昭和24年に森電熱孵化場の会社名で創業した。
 森孵卵場は今日に至るまでブロイラー雛の生産・販売を通して規模を拡大、現在では正社員219名、全国に複数の雛の生産拠点を持つ日本でも有数の孵化場に成長した。
 今回取材した同社の森泰三専務は、森英雄社長の次男として生まれ、幼い頃から獣医になることを志し、紆余曲折を経て同社の専務となった。
 会社と従業員への思いが強く経営学よりも福利厚生に興味を持っているという優しい人柄は穏やかな語り口と一呼吸置いてから話し始める思慮深さからにじみ出ていた。
――後を継ぐということを決意されたのはいつでしょう。
森 まず、私には七つ違う兄がいるのですが、兄も私も大学は獣医学科を卒業しています。多分「鶏の研究」の読者の方ならご存知だと思いますが、ニューカッスル病が養鶏業界に大打撃を与えた時期があって、その衝撃を自分の会社ももろに受けたという事実を、幼いながらに教えられていて、そうした中で、まだ生まれたばかりでしたけど、この家に生まれた人間なりの使命感が次第に刻み込まれていったのでしょう。鶏の疾病をコントロール出来なければ会社の存続は難しい。そのために獣医師になりたい、そう思った訳です。この気持ちは兄も一緒であり、後を継ぐという気持ちよりも技術者になりたいという意識が強かったように思えます。(続きは5月号に掲載)

「ぶったまごはん」を世に送り出す

       ㈱のだ初 野田裕一朗専務
 今回取材した㈱のだ初の野田裕一朗専務の話は意外性に富んでいた。たまごかけ醤油ごはん「ぶったまごはん」を世に送り出し、いまでは自他共に認める卵好きな野田専務だが、そんな現在からは到底想像できない、後を継ぐことが嫌で勘当同然で家を飛び出した過去を持っていた。彼が卵の消費拡大に熱意を露にするにいたるまでには、一体何があったのだろうか。
 ㈱のだ初は、1913年(大正2年)に飼料雑穀店として創業して以来、養鶏業を生業として高品質な卵の安定供給を続けてきた。現在では、鶏卵の生産から流通、販売までのシステムサービス、畜肉加工、惣菜、各種飼料の販売までを手掛け、卵専門店として開店した「うぶこっこ家」はテレビに取り上げられるほどの人気店に成長した。
 この「うぶこっこ家」のプロデュースをはじめ、積極的に卵の良さを消費者に伝えようと奮闘しているのが、野田裕一朗専務である。
――「うぶこっこ家」はすぐにゴーサインが出た企画だったのですか。
野田 いえいえ、オープンまでには5年かかりました。幹部会議で全員から反対された所から始まった企画なんです。私は自分達の思いを伝えましょう、そのための店を出しましょう。これからは作って卸すだけの商売ではなく良いものを作ったらそれを伝えなくては、と訴えたんです。ですが、最初の反応は生産者だからそんなことしなくても良い、良いものを作っていればそれで良いという雰囲気で。
――それでも諦めなかった。
野田 伝えることは絶対に必要なことだと思っていましたから。開店までの五年の間には学ぶ機会も多く、この間に直売店からたまご専門店に企画変更したりして、やっとOKを出してもらえたんです。店がオープンしたときは嬉しかったですよ。店の前には80人程の行列ができていて、開店と同時に大きな声で「いらっしゃいませ」と挨拶するつもりだったのですが、涙が溢れて喋れなかった。(続きは4月号に掲載)
 同氏の「たまごニコニコ大作戦!」の詳細は7月号に掲載
安心・安全な上で安定供給は欠かせない

(株)阿部繁孝商店 阿部繁之氏

阿部繁之氏

 世代交代の過程において同じ会社で、親子が同じ職場で働くということは、社員とはまた違った距離感での付き合いになる。こうした関係には良い面もあり、不都合な面もあるが、いずれにしてもそうした時期を乗り越えて次代へと経営を継承していかなくてはならないのが現状である。
 今回取材した、株式会社阿部繁孝商店の阿部繁之社長は、今年の四月に先代から事業を引き継ぎ、新社長としてのキャリアをスタートさせた。明治40年に創業し、今年で100周年を迎える企業を担うこととなり、期待も大きい。
「自分は典型的な北の人間で大勢の人前で話すのは苦手」とシャイな一面を覗かせるが、取材では内に持つ信念が揺るぎないことを、終始一貫してぶれることない思いや主張から読み取ることができた。その人柄と共に事業継承のポイントを探った。
――継ぐことを意識されたのはいつですか。
阿部 父は多くを語るタイプではないので、「継いでほしい」と直接言われたことはありません。ですが中学、高校と地元に通っていましたので、周囲から「あべはん」の息子だというのを意識させられていたところがあります。ですから、誰に言われることもなく、他の道を考えるということは頭にまったくなかったですね。いずれは自分の会社に入って、自分がこの会社を継がなければならないと早い段階で思っていました。(続きは7月号に掲載)
身を引く側と後を継ぐ側双方のセンスが問われている

株式会社N.G.C. 鈴木康太郎

新世代に聞くN.G.C
 兵庫県赤穂郡上郡町にある株式会社N.G.Cは、昭和63年に設立されて以来、良質な若メスを提供している。
 今回取材した同社の鈴木康太郎氏は、鈴木康晄会長の長男として生まれ、他産業での社会人生活を数年間経験した後、同社の職に就いて6年経つ。大の車好きで、働いていた会社も自動車部品の開発会社だったという同氏は理系出身の経歴を活かし、同社の情報技術の革新に一役買っており、N.G.C社の一つの強みともなっているデータの収集・分析能力を引き出している。
 他産業からの転身で職に就く鈴木氏には会社、業界がどのようにみえているのだろうか。自らを「変わっている」と称するその人柄を探ることも併せてその話を伺った。

編集部―後を継ぐことは考えていたのですか。
鈴木―いえ、後を継ごうという気はまったくありませんでした。小さい頃から、何故だか車が大好きで、車のスペックなどを事細かに暗記するのが趣味でした。車に乗っていても、乗っている間はずっと対向車ばかりみていましたし、夜になって車体がみえなくなると、近づいてくる車のランプの形で車種を特定して喜んでいるような、そんな子供でした。だから、将来は車に携われるような仕事を、と自然と思うようになって迷うことなく理系の道に進みました。
(続きは6月号に掲載)